桜井さんへのお便り〜「HERO現る」




桜井さんへ

あなたは大変、素晴らしい曲をたくさん作られています。

その時々の気持ちが本当に歌に乗っかって響いてきます。


「KIND OF LOVE」の時は、ウキウキハッピーでしたよね?

「Atomic Heart」の時は、物憂げでしたよね?

「深海」の時は、絶望でしたよね?

「DISCOVERY」の時は、抜け出せるきっかけが掴めましたよね?

「Q」の時は、表面的におどけたフリして、投げやりでしたよね?

「シフクノオト」の時は、いろいろ乗り越えて、希望を持ち始めましたよね?


と、私個人的に感じております。違ってたら、ごめんなさい。

ストレスが多い人生だからこそ、きめ細やかな歌を作れるのかなと思ってます。



名曲の中の一つ「HERO」ですが、その中にこんな歌詞がありますよね。

「誰か一人の命と引き換えに世界が救えるとして…誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ」


桜井さん、あなたはクリスチャンですか?

ホントにボクたちは、誰かがそれをしてくれるのを待ってるだけしか、できなかったのです。



でも、すでに名乗り出てくれた方をご存知ですか?

神ご自身が、進んで、名乗り出て、ボクたちの罪の代わりに、死んでくれて、救ってくれました。
 

本当のHEROは、単にスーパーマンのように強くてかっこいいだけじゃなく、その背後に犠牲が伴っているというのは同感です。

誰かが犠牲を払うことによって、誰かの命が助かり、誰かが救われる。


イエス・キリストが十字架の上で死にました。

それは、ボクを救うため。桜井さんを救うため。


今度の日曜は、ちょうど2000年前にイエス・キリストが十字架にかかった受難日です。



というわけで、よかったら「HERO現る」というタイトルで、作曲お願いします。




このお便りが届きますように。



あなたのファンである後藤哲哉より






 

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限られた時間を充実させるために〜バビル二世のヨミ



ちょっと古いアニメ「バビル2世」をご存知ですか?

バビル二世とは、超能力少年。超能力を操り、3つのしもべに命令して、世界征服を企むヨミに立ち向かうストーリーです。


子供の頃、「オレはひょっとして、超能力を持っているかもしれない。もしかしたら、バビル2世かもしれない」と、思っていたことがありました。

しかしある日、悟りました。

「あれ?オレ、サイコキネシス使えねえぞ。テレパシーも使えない。3つのしもべもいねえぞ。いるのは1匹の犬だけ。嬉ションするくらいで、オレの敵をやっつけたりしたことない。まさか、オレはバビル2世じゃないのかもしれない…」と。
 


そのバビル2世に登場してくる悪の親玉が「ヨミ」(画像左)。

そのヨミは、バビル2世にやっつけられるんじゃなくて、過労死してしまう。

でも、ヨミは超能力で復活できるから、次の日になると登場してきて「ええぇぇー」ってな感じで、バビル2世もびっくり。

そして、結局、3回過労死するから、ちょっと笑えます。

ただし、ヨミは、そのたんびに、老けこんでいく。


部下たちは、気遣って、「ヨミ様を寝かせてあげよう」と言っても、ピンチになると、「すぐにヨミ様を起こせ!」

世界征服も忙しい。



ヨミの最後のセリフがこれです。

「ああ。静かに眠りたい。誰にも邪魔されることなく、永遠に眠りたい」

とっても悲しい悲しいボスキャラ。もうこの地上は大変だし、疲れるから、永遠に眠りたいのだそうです。


生きることはストレスです。


 
人類始まってこのかた、だれもが願ってきた不老不死。

中国を最初に統一した始皇帝が不老不死の薬を作れ!と命令して、何かそれらしいものが完成したらしいのです。

でも、今生きてますか?

現代医学も健康食品も発達しましたが、老化を多少食い止める程度のもの。

例外なく、誰もがふけます。誰もさけられない事実。月日の経過とともに、細胞は劣化し・退化していきます。




限られた時間をどう色濃く、充実して生きるか。

宇宙戦艦ヤマトのように、「あなたの地上での時間あと、13,140日」みたいに表示できたら、無駄に過ごせないですよね。


忙しい人でも、時間に追われている=充実ではないのです。

自分にしかできない、自分に定められたミッションを果たすことこそ、充実と呼べるのです。





明日から、木曜まで、お仕事で横浜に行ってきます。

ネット環境がなければ、ブログはお休みします。

日頃、支えてくださり、感謝しています!






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ストレスをなくす努力より、思い煩いからの解放


あなたはどんなストレスを抱えてますか?

その前に、あなたはストレスを抱えていますか?


ストレスのない世界が憧れですが、私たちが人生を生きるというのは、波風立たない穏やかな暮らしを生きることではなく、人と人が接触し、自分の思い通りにならないことばかり発生し、自分の体が思い通りにだんだんならなくなっていくことのストレスの連続の中で生かされていることなのです。



聖書には、ストレスが人生にあることは否定してません。

ヨハネの16章に「あなたは、世にあって、患難があります」とあります。

つまり、この世界に生きている以上、多かれ、少なかれ「患難」という名のストレスがありますよ、と言っているのです。



人生のストレス度指数というのがあって、人生の中で最も、大きなストレスは何かというと、日本、欧米、アジア、アフリカ問わず、どこでもダントツなのが、配偶者の死別です。

その配偶者の死別を指数100とすると、なんと結婚もストレス指数50なんだそうです。


結婚っていう、人生最大のハッピーなイベントであっても、生活様式の違う人と、いっしょに暮らしていく。嬉しい気持ちがほとんどだけど、引っ越し、義理の両親との付き合い、新しい環境の変化など、少なからずストレスがある。

つまり、結婚さえ、ストレスを人間は感じるということなのです。
 

生きることは、ストレスです!



だから、ストレスをなくす努力よりも、避けられないストレスとどううまく付き合っていくか。

そして、ストレスが思い煩いにならないようにどうすればいいのか。

そこに焦点を当てるべきです。



聖書に「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配してはいけません」とマタイの福音書6章にあります。

ここにヒントがあります。



明日の日曜メッセージは「SET ME FREE<解放>シリーズ・3『ストレスより思い煩いからの解放』というタイトルでお話しします。





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ヴィジョンは「バラ色」ではなく「リアリティー」

 


法務省の心理技官として、全国の更生施設で少年の心理や、非行・犯罪の原因 などを分析し、立ち直りを考える仕事をされている藤掛明先生の話です。


「バラ色ばっかりの未来を思い描いている人は、気をつけてください。もしかしたら、つらいことは考えないように、現実から目をそらして、現実逃避しているかもしれない。」
 


藤掛先生が、ある男の子と面談をしたそうです。

【第1回】

先生「これから、どうしたいんだ?」

少年「僕は少年院で、音楽の才能があることに気づきました。ドイツに行こうと思います。」

先生「どんな音楽の才能だ?」

少年「リコーダーを吹いて演奏したら、すごく上手くいった」

先生「なんでドイツなんだ?」

少年「はい。ドイツは音楽に関して進んでいると聞きました。先生、ドイツの音楽学校を紹介してください。」


藤掛先生は、「バラ色だなあ」と思ったそうです。

ポジティブなことは否定しませんけど、現実的に前に向かって、できることがまったくない。それはバラ色な妄想に過ぎない。



【第2回】
この少年と面談をするようになって、3ヶ月後、もう一度聞いたそうです。

先生「これから、どうしたいんだ?」

(バラ色を語る人の特徴に、自分の言ったことを忘れているそうです。ドイツのことは言わなかった)
少年「エリートビジネスマンになりたい」

「エリート」って普通言いませんよね?ドイツから帰国したので、よくなってるけど、まだバラ色だなあ〜と思ったそうです。



【第3回】
さらに面談を続けて、その中で関係が難しかった親とも面談もし、その3ヶ月後、もう一度聞いたそうです。

先生「これから、どうしたい?」

少年「はい。両親のところに戻ってやり直す自信はありません。地元に戻って、住み込みの仕事をしたいと思います。」



藤掛先生は、100点だと思ったそうです。

何もかっこよくないですよね。バラ色でもなんでもないです。でも、現実を踏まえ、今できる前向きのことをしっかり考えて、踏み出そうとしている。

この子は、立ち直る可能性がすごく高いと言っていました。



夢とヴィジョンの違いは、何ですか?

夢は架空です。バラ色だけです。ヴィジョンはリアルです。現実です。



自分の中に秘めた大きな可能性は、自分さえも知りません。

小さく見積もる必要はありませんが、でも、そのために現実的に何か小さい一歩を踏み出せないようなら、それはバラ色夢物語です。



本当の自分の気持ちと向かい合う。そして、現実を見つめる。

理想と現実の狭間でもがきながらも、小さな一歩を踏み出せるものこそ、ヴィジョンとなりえます。







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イラっとしてもストレスを溜めない方法



「ストレスを溜めないように、思ったことはすぐに言うべきだ」という人がいます。

本当にそうですか?


今の私なら、「ありえない!」と思います。すぐに人間関係が終わってしまいます。

以前は、上下関係などおかまいなしで、思ったことや気持ちをそのまま噴射していたので、人間関係すごくモメました。



でも、イラっとした相手に、そのまま気持ちを言わなければ、人間関係の摩擦は回避できるものの、やはりストレスが溜まってしまいます。


どうすればいいのでしょうか?


今でも、「え?そんなこと言うの?」と驚くようなことを言う人がいます。たまに。


以前は、「自分が正しくて、相手が間違ってる」という考えから、「何でそんなこと言うんだ。この場面で適していない!」というように、ぶつかったりしました。

今では、「それを言うことによって、どんな心理状態なんだろう。どんな環境にいるのだろう。」

と相手のニーズ、何を求めているのかを考えるようになりました。

正論だとか、自分が正しいかどうかは一番大事ではありません。

というか、自分が常に正しいなんてのは、間違っています。


だから、必要ならば、先回りして、こちらが折れてあげるのもお互いのためです。



例えば、年度末の忙しい時期に、上司が何かとうるさく言ってきます。

そこで、あなたは「上司もきっと上からの圧力やノルマなどがあって、責任もあって、厳しい立場にあるんだろう」

と感情の先回りして、

「部長、すみません。お忙しいのに、気にかけてくれて、ありがとうございます。部長の負担にならないように、以後気をつけます。」

と言ってみたり、

朝一に「部長、この時期、忙しくて大変ですよね。私も部長の負担にならないように頑張ります。」

などと言ってみると、自分も相手もイライラしない円滑なコミュニケーションを持つことができます。


上司が嬉しいなと感じれば、必要以上にガミガミ言えなくなるのです。


難しいかもしれませんが、あなたのできそうな「小さな一歩」をしてみてください。

一瞬イラっとしても、ストレスを溜めずに、自分の力を発揮できるでしょう。




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「心理学」から「そのままで愛してくれる存在」〜当時の師匠は尾崎豊



私の青春時代は、暗黒時代とも言えます。黒歴史とかではなく、暗黒時代です。

「あと人生、60年以上も続けてらんねー」

「太く短く生きるためにはどうすればいいか」

「自分の人生のピリオドは27歳がちょうどいい。それくらいなら、なんとか耐えられる」


と思っていました。


その師匠は、
尾崎豊です。

彼は、刹那的破壊的生き方をしていました。高校を中退し、薬にも手を出し、酒を飲んでは暴れていました。

でも、彼は本当の愛を求めていたのですよね。

「隠された痛み」参照)


「17歳の地図」「15の夜」「路上のルール」この辺がテーマソングです。(笑)

高校生の頃には、友だちからバイクを借りて(盗んでません)、制服のままノーヘルで200km/hとか出していました。こけたら一発即死です。

先輩からケンカ売られたら、一人で立ち向かってました。(結果ボロボロ)

先生、先輩、親とはいつもモメていました。


今では「よくもまあ、こんなアホやってたな」と呆れます。

こんな無謀すぎる男が、今は牧師になり、愛を語り、人生の素晴らしさを伝えるようになったのは、すべては、セルフイメージの変革でした。


それは、心理学ではありません。

心理学の本を読みまくった結果、自分の心のメカニズムは理解できました。

「あー、だからこんなに生きるのが辛いのか」


でも、セルフイメージの低さは解決できませんでした。

答えに辿りやすくするために心理学は有効であると思います。でも、自分を知ったからと言って、それで変身できません。



私をそのままで愛してくれる方が見つかったとき、時間はかかりましたけど、変身していきました。


それは
イエス・キリストです。

そして、イエス・キリストを知っている人を通して、自分には価値があるとだんだん知ることができました。

自分のために100%命がけで愛してくれる存在と出会わなければ、本当の意味での変身は難しいと暗黒時代を経た私は思います。







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神のかたち


 ある中学校でのことです。

道徳の時間に、先生が「命の尊さ」という主題で授業をしました。

「人間の命は何よりも尊いものです。絶対に粗末にされてはなりません。」

ところが、あとで生徒たちが書いた感想文の中に、こういう文章がありました。

「命の尊さと言ったって、人間はいろんな動物を殺して食べているんだから、人間よりももっと強い宇宙人がやって来たら、人間は捕まえられて餌にされても文句は言えないじゃないか。」


その先生は、彼に何と答えたらいいのか、わからなかったそうです。


今、あまりにも簡単に人を殺す少年犯罪が続いています。もちろん、テロや報復の戦争もまったく同じです。「人間の命を、何だと思っているんだ?!」という声をたくさんの人が上げています。


「今は人間が豚を殺して食べているのだから、もっと強い生物が来たら、人間が食べられるようになっても、自然の成り行きだ」というのを、どう思いますか? 

多くの人は、「そうだ。それは仕方がない」と言うのです。

「強いものが弱いものを征服していくのさ」と言います。



私もそう思います。ただし神様がいないなら! 


人間が、ただ偶然生きているのなら、強いものが弱いものを殺すのも自然かもしれません。

人間も動物なのだから、弱い人は滅びて強い人が生き残っていくのも自然かもしれません。強い国が弱い国を滅ぼして、ますます大きくなっていくのも自然かもしれません。



しかし、聖書は、「人間は、他の動物とはちがう」と言っています。

「すべての人の中に、神のかたちがある」

と言っています。

そして、人間とだけ神とレスポンスできる「宗教心」を与えられました。

強い人にも弱い人にも赤ちゃんにも若い人にも、おじいちゃんにもおばあちゃんにも皆の中に「神の形」というものがあるのです。

だから、人は尊いのです。








 
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「刺激」vs「安定」


あなたは「刺激」と「安定」のどちらを望みますか?

1、刺激

2、安定

3、どちらも





3のどちらもという欲張りな人がほとんでしょう。(笑)

しかし、リーダータイプは、0.2秒以内で「刺激」を選びます。

刺激と安定は相反するものです。安定を望むなら、攻めません。攻めないなら、何も変わらないので刺激もありません。


(ここで「刺激」は環境の変化という意味。注意しなくてはならないのが、人間とは肉体的「刺激」を求めると、それ以上のものでないと満足しなくなる。)



起業する人や0からスタートする開拓者は、その仕事が成功する保証などありませんよね。

それでも自分の可能性を信じて挑戦する人は、まさに冒険家です。でも、それがワクワクなのです。



拡大事業しようとして投資したものの失敗して、莫大な借金を背負った。

安定した給料をもらえる会社を辞めて、自分の好きな店を出した。でもうまくいかない。



こんな人が身近にいます。

やはりこんな失敗談を知ると、「安定」に留まっておいたほうがいいとブレーキがかかります。




昨日、kazという男に会いました。

まさに0な環境です。神様だけを頼りにしていたら、だんだんと道が拓けてきました。

ヤツは刺激を求める冒険家に違いありません。

応援します。

(「牧師に見えないランキング」の常連)



安定を捨てて、刺激を求めろ!とは言いません。

でも、あなたの中に、頭では無謀だと計算しても、心のワクワク感が止められないって人は祈りつつ、挑戦してみてはいかがでしょうか?

「うぉー神様すげー!」

となります。



「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」


(ピリピの手紙2章13節)








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神の存在の「証拠」は無数に散りばめられている


前回の続きです。

神の存在の「証明」できませんが、「証拠」は無数に散らばっています。


それは、「偶然では説明ができない」ことが数多いということです。

クリエイターなる存在がいなければ、宇宙もあなたも存在するはずがないのです。

いくつか見てみましょう。


例えば、地球と太陽の距離、地球と月の距離も絶妙に図られて、自転も公転もそのスピードも今のままでなければ、生物は存在しえないのです。

月という重いおもりがあるからこそ、地軸の傾きが安定するのです。

もし、月がなかったら、地球は超高速回転になって、人類は生きられません。



人間は無から、数億年かけて、単細胞生物から偶然を繰り返して、進化したと言いますが、新種は劣化します。ハイブリッドは次の子孫を残せません。

さらに、単細胞生物さえ、ものすごい精密な生き物です。バクテリアはすばらしく機能的な構造を備えています。鞭毛モーターなど、一つの部品が欠けても機能しません。

分子レベルでどう進化したか全く説明できていません。


さらに言えば、細胞がどう誕生したのかも、まだ推論の域を脱していません。

さらに遡って考えてみると、宇宙誕生のビッグバンでさえ、無から有が生じたことであるならば、その第一原因が存在するはずです。


つまり、偶然では、無から有を発することができないのです。

目的をもって造られたデザイナーがいないと説明ができません




人間のDNAにはものすごい情報が組み込まれています。それは、偶然に適当に並べられるものではなく、一生の情報が詰め込まれているのです。

ほとんどの科学者は、それは数億年経とうが、発生できるものではなく、意志をもって目的をもって造った存在がいると認めています。(知的デザイナー説)

長い年月を経れば、たまたま人間が誕生するなんて、腕時計の部品を箱の中に入れて、何万回、何億回とシェイクしたら、腕時計が偶然出来上がりました、というほどありえないのです。

腕時計は、「時間を把握する」という目的をもって作られました。


あなたが存在していることが、もはや偶然ではなく、目的をもって生まれ、生き、進んでいるのです。



「偶然ではありえない」ということが、科学が進めば進むほど、解明されています。

科学の進歩は、神の存在の証拠につながっています。





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神の存在は「証明」できるか?


神の存在を証明できますか?



バートランド・ラッセルという人は、無神論者の代表のような人です。

彼は、「なぜ私はクリスチャンではないか?」という本を書きました。

最初の冒頭がこんな感じです。

ラッセルは子供のとき、いろんな物が存在するのは神が造ったからだと教えられて、納得していましたが、「誰が神を造ったの?」と聞いたとき、誰も答えられなかったので、その瞬間に「私の全信仰は崩れた」というのです。

ちょっとなんというか、残念です。


もし神を造った者がいたら、それは神ではあり得ません。

ラッセルは、誰かに造られなければ存在できない「依存存在」しか知らないので、そういう結論を出したのです。

神は、永遠の、誰にも造られない、「自立存在」なのです。始めも終わりもないのです。

有限の世界に生きている私たちにとって、始まりがないとか、終わりがないという感覚は到底わかりませんが。



「では、その神の存在を科学的に証明できますか?」と聞く人もいます。

はっきり言って、できません。

科学的に証明できなければ、信じません。という人とごまんと会ってきました。

科学で証明されていることなんて、ほんの一部です。

人体だってそうです。この50年間で、遺伝子学、生物学が飛躍的に進みましたが、解明されいてるのはわずかです。



科学は、限られたものしか扱うことができません。

「限られたもの」とは何かというと、「測定できるもの」「数字で表せるもの」です。

「身長174cmの後藤哲哉」がいることは証明できます。「42.195キロのマラソンコース」があることは証明できます。こういう測定できるものは、科学的に証明できます。


でも、愛って測れますか?

「ねえ、私のことどれくらい愛してるの?」

「こないだ測ったけど、10t 愛してるよ」

「お、重いわ・・・」

こんな会話ありえません。(笑)


「彼は曲がったことが嫌いで、ものすごい正義感を持っています。」

「どうしてわかるの?」

「先日、正義測定器で測ったら、3kmもありました。」

そんな測定器ありません。(笑)



ということは、愛も正義感も、科学的に証明することはできないということです。



科学的に証明できないから、親の愛は存在しないのですか。

科学的に証明できないから、あなたの正義感なんか、信じない」と言うでしょうか?このようなものは、科学的証明なしに信じます。


同じように、「科学的に神の存在を証明しろ」というのは、「あなたが私を愛しているかどうか、胸のレントゲンで検査する」と言うのと同じくらい無意味なことなのです。


それでは、神はいるのでしょうか?いないのでしょうか? 

います。

証明はできませんが、証拠はあります。


次回、「神の存在の『証拠』はある」というタイトルで書きます。







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